大正、昭和の日本と朝鮮に生きた二人の女性を主人公にした素晴しい力作を読んだ。何度か心震えた。 深沢潮の長編小説『李の花は散っても』。一人は、日本の皇族の女性で、日韓融和のため朝鮮の李王家に嫁いだ李方子。実在の女性。 もう一人は、最下層の庶民のマサ。こちらは架空か。 関東大震災、日中戦争、太平洋戦争、日本の敗戦、朝鮮戦争という激動の時代が、二人の対照的な女性の視点から描かれてゆく。 歴史に、国家に翻弄されながらもなんとか生きてゆく二人の女性。 国家とは何か。「お国なんて、もう信じられない」という方子の言葉が重い。 メイ・サートン『終盤戦79歳の日記』は、『独り居の日記』以来、日本でも多くの読者を持つアメリカの詩人・作家の晩年の日記。 七十九歳に向かう作者はさすがに相当に身体が弱ってきている。もう満足に一人暮しが出来ない。 幸い秘書や友人たちに恵まれていて、彼らの手助けでなんとか静かに暮せる。 花を愛し、庭に来る鳥に餌をやり、猫を可愛がる。友人とランチを楽しむ。読書を欠かさない。 年を取ってもこんなに豊かな日々を送れるとは羨しくなる。 游珮芸・周見信作の『台湾の少年』は、最近目立つグラフィック・ノヴェル(漫画というより絵物語)。 実在の人物、蔡焜霖が主人公。一九三〇年、日本統治下の台中で生まれ育った。読書の好きな子供。 全四巻からなる個人史だが、とくに胸を打つのは戦後、国民党による弾圧(白色テロ)の時代のくだり。 蔡青年は学生時代、読書会に参加したのが容共的とされ、突然逮捕される。拷問の末に懲役十年の刑を受け、当時、「反乱分子」とされた人々が収容された緑島に送られる。 台湾現代史の悲劇に改めて慄然とする。 平山周吉『小津安二郎』は、日中戦争に従軍した名監督の戦争体験に着目した評伝。昭和史研究者の著者らしく小津作品の随所に見られる戦争の痕跡を丹念にたどっている。 『麦秋』の老いた菅井一郎がふと見上げる「空」に、戦争でわが子を失なった父親の悲しみを見る箇所など思いがこもっている。 小津の若き日の盟友、山中貞雄監督は兵隊に取られ戦病死した。その死を悼むように小津作品には、山中作品が影を落としているという指摘も説得力がある。 『芝居のある風景』は見巧者として定評のある矢野誠一の演劇随筆。八十歳を過ぎた氏だけに、軽い文章にも年季の入った深みがある。劇評というより“ちょっといい話”が盛り沢山。 樋口一葉を主人公にした芝居を見ると、一葉つながりで伊藤一葉という一風変った奇術師のことを思い出す。新派の『婦系図』を見ると声帯模写のこと、『ミュージカル にんじん』を見るとデュヴィヴィエの映画と、連想ゲームが楽しい。 [レビュアー]川本三郎(評論家) 1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。 新潮社 週刊新潮 2023年5月4・11日ゴールデンウイーク特大号 掲載

関連投稿

投げれられたコメントは運営チェック後に開かれます